Simulation (or Imitation) Box
Concept, Book Design, Graphic, Editrial, Space, Art Direction, Photo Direction, Event Direction
【Background】
2024年12月11日-20日の期間、経堂のカフェRaw Sugar Roast 2Fのギャラリースペースで個展を開催。個人のグラフィック研究プロジェクトである「Graphic in Progress」のVol.3と位置付け(Vol.1 DIMENSION、Vol.2 BACK TO DESIGN / GRAPHIC PHANTOM)、グラフィックデザインを哲学から分析する試みを行った。
【Overview】
本展示はコンセプトレスである。自己の発露による「作品存在の肯定」という他はない。それは、「作品」というものの性質自体が、常に作家の魚拓のようなものであり、 その存在があるだけで、作家の考えをあますところなく反映しているものだという考えに基づく。
普段、グラフィックデザイナーは、普段は二つの言語体系を使用し、仕事をしている。それらは、言語的言語と、視覚的言語である。
言語的言語とは、いわゆる言葉で伝えることのできる範囲の言語であると定義する。(僕が勝手に定義したもので、トートロジー的な名称を回避しようと思ったが、これが一番しっくりくるのだ。)視覚的言語とは、言葉では伝えることができない、視覚に特化した暗黙知の領域を語るための言語である。例えば、形容しがたい感情を描き殴って表した絵に対して、鑑賞者がその感情を言語による解釈を要せずに齟齬なく受け取れた場合、視覚的言語はまさに機能していると言える。
この二つの言語を駆使しながら、僕は日々、ブランドのアイデンティティデザインやグラフィックデザイン、それに紐づいた紙物やサインやプロダクトやデジタルツール、あらゆる媒体の制作をしている。デザイナーの仕事は、もちろん形を作ることが第一義にあるのだが、制作物を通してその背後にある「意味の構築」を行っていることを蔑ろにはできない。それらは社会通念的には「コンセプトメイキング」や「ストーリーテリング」と呼ばれるものだ。
しかし、英訳や和訳などの言語間の翻訳時ですら、ニュアンスや文化の違いによる意味のゆらぎが生まれるのだから、視覚的言語と言語的言語の交換時にもそれは起こることは明白であろう。であるのに、それをそのまま別の言語で言い切ることは、様々なニュアンスやノイズを排除し、作為的なものだけを抽出した、極めて言語支配的なビジュアルになってはいないか。
例えて言うなら、人間の耳には聞き取れない周波数の音を切り捨てて軽くしたMP3データを生演奏と同質の音と言い張るようなものではないのだろうか。本当にそのままの視覚的言語に耳をすまそうと思えば、視覚的言語のまま「何にも変換せずに」受容するしか方法はないのではないか。
今回の展示は、そのコンセプトメイキングやストーリーテリングを作る「言語的言語」を介さずに、「視覚的言語」のみで作品を表し、「作品存在」そのものを浮き彫りにするという、極めて個人的な作家としての試みである。
視覚的言語のみを純粋に取り出すには、言語的構築に頼らないロジックが必要になる。
僕の中でそのヒントになったのが、ブリコラージュだ。ブリコラージュとは、文化人類学者であり、私が最も影響を受けた「構造主義」の祖の一人でもあるクロード・レヴィ=ストロースがその著書『野生の思考』で提唱した考え方である。
建築のように最初から最後まで、「概念」を組み合わせて隙なく完成にまで導いていく創作方法が「科学的思考」であるのに対し、ブリコラージュは、冷蔵庫にたまたま入っていた具材から成る料理のように、手元にあるありあわせの「記号」を用いる日曜大工的産物である。
ありあわせであるが故に完璧ではなく、そこにはいつも「ゆらぎ」や「ズレ」がある。そして、そのゆらぎには人間性が入り込む余地が多分にあり、「記号」であるが故に分解して次の創作にも再利用しやすいというメリットがあるのだ。
視覚的言語のみを純粋に取り出すのにブリコラージュが向いているのは、つまりはそういった日曜大工的な性質による。
寄せ集めた相互に関係性の薄いパーツを組み合わせる時、それらを接着させる構成作業は言語下では行われない。何故ならそれらは元々言語的感覚によって集められたパーツではないからである。言うなればそれらは「ただ偶然的にそこに存在したものを合わせていく」感覚であり、制作においては言語的思考の到着を遅延させ、視覚的思考が先んじて作品の骨格を定めていくのに効果的な方法だと気づいたのだ。
そうやって言語的感覚が眠っているうちに視覚的言語によって寄せ集めたのが、『Simulation (or Imitation) Box』の作品においての緒要素である。
私は若輩者ではあるが、それでもグラフィックに従事し、これまで相当数の作品も作り、多少の経験を積んできた。自分の中にバランス感覚や嗜好性、癖などは蓄積している。それらは、例えコンセプトやストーリーテリングといった言語的言語に頼らなくても、無意識下の美的感覚の集合体として、画面に記述できるのではと考えたのだ。
なるべく、モチーフに言語的必然性は入れない。好きなものを好きなように描く。あくまで自分の視覚的必然性に従ってそれらは記述する。
本展示の作品においても、ビジュアルモチーフとして数多の線的要素を使用しているが、それらにも特に言語的必然性はない。「ただそこにそれが欲しかったから」置いたものである。一度言語化して検証するという工程は徹底的に省き、視覚的に納得ができる要素のみを抽出する。
そして置いたそばから、「これを感覚的に調和させるにはどうすべきか」ということを刺激に対する反射に近い形式で行うのである。恐らく意志を入れずとも、僕の経験や嗜好性、それによる思考性がその解決策を知っていると信じて。
それらがピタッと感覚として合わさる瞬間を待ち、ひたすらに検証するのだ。
作品によっては、ドローイングは過去に描いたありものをそのまま流用している。それはまさにありあわせの食材を組み合わせるブリコラージュ的な発想の体現である。(なんなら最初は全ての作品に既存のドローイングを使用しようかと思っていた。)
学生時代に私のグラフィックの師である佐藤晃一先生が、こうおっしゃっていたことがある。
「ビジュアルが先にあって、そこにクライアントを持ってくる方が、表現物としては純粋といえるだろう」
その発想の転換ぶりに驚いた記憶があるが、今は師の気持ちも分かる。純粋な表現をしたいと考える時には、その他の事情は全てノイズでしかない。
ノイズに合わせて表現主体を歪める必要性は、本当のところはどこにもない。
あくまでイド(無意識の領域)に従い、そこに形を表すのである。それこそが冒頭に述べた「作家の魚拓」の、極めて純度の高い存在になるのだと信じている。
なぜ存在をそのまま描くことにこだわるのか。実はクロード・レヴィ=ストロースの他にもう一人、私の作品への思想形成に大きく影響を与えた人物がいる。作家であり哲学者でもあるアルベール・カミュだ。カミュの思想においての根幹部分は、「人生は不条理である」という考え方にある。
近代以前においては、神のような超然たる存在を信仰し、人類はかろうじて生の意味を設定することができていた。しかし近代以降、人類の発展に従って神は力を失い、ニーチェなどは「神は死んだ」という死亡宣告すらした。そして実存主義者たちが台頭し「実存は本質に先立つ」という言葉が広く認知されることとなった。
「我々人間は、この世の中に理由も分からず投げ込まれた存在である」ということを前提条件とし、人々はどこまでも自由な世界で、自分たち自身が存在の意味を見出すことを強いられるようになったのだ。理由も分からずに生きなければならないその苦痛をサルトルは「我々は自由の刑に処されている」と語り、人間は自らの行動によって自分自身を定義づけていく存在であるという力強い説を唱えた。
アルベール・カミュもそれらの実存主義者に数えられることがあるが、正確にいうと少し違う。
「実存は本質に先立つ」という前提は一緒だが、実存主義者たちが基本的には生への意味づけにポジティブであるのに対して、カミュの態度は一線を画す。
「私たちの生に特別な意味はない。意味がないことが摂理である」とし、それを「不条理」と呼んだ。不条理が摂理である生に意味を付与しようとする行為は、反理性的であり、世界との断絶を強固にする。それによって人間は苦しみを増幅させてしまうのだ。とカミュは言う。
「なぜカミュはそんなことを言うんだ。人生に意味を付与しようと頑張る姿勢は素晴らしいじゃないか」
と思う人もいるかもしれないが、私はこれを知った当初、「優しい」と捉えた。
世の中には、意味を付与しようとしてもできない環境にいる人も沢山いるだろう。それは、そのままで良い。カミュの言わんとすることは、「人生はどのみち不条理なのだから、その不条理を受け入れて、そのまま愛そう」ということなのである。
哲学の説明が長くなってしまった。しかし私がグラフィック作品を無理に意味づけしようとせず、視覚的言語たる存在として生み出したまま肯定していきたいと考えるのは、この思想が根幹にあるのだ。
私は、作者と作品というものは「親と子」のようなものだと捉えている。お分かりかと思うが、「生み出した情がある」という次元の話をしているわけではない。親子のように繋がりはあるが、決して同一の存在ではなく、同一視してはならない。ということを述べたいのだ。
このあたりは、作品制作を生業にしていない人には、少し理解が難しい話かもしれない。例えば、作者が社会的に問題を起こした場合、作品制作に慣れていない人々は恐らくこう言うだろう。
「問題のある作者によって作られた作品は、即刻世の中からなくすべきだ」と。
もちろん作品に100%罪はないとは言わない。緩やかに繋がっている以上、ケースによってまちまちではある。
(しかも芸術領域によってもまちまちで、身体性を持つ芸術領域であればだいぶ作者に近いこともある。
例えば、声楽や舞踊などは絵画と比べるとかなり身体性に依存する芸術領域である。)
しかし、基本的には親が何かをしでかして捕まったとして、子たる作品にどれほどの責任があるだろう。
作者の思考が作品を形成したのは事実だが、生み出された当の作品は既に作者とは別の思考形態を獲得している。だからこそ作者は、自分でも思いもよらないものが出来上がって驚きもするし、自らが描いたものを見て初めて、「ああ自分はこういうことを考えていた人間なのか」と学んだりもする。自分が考えているよりも遥かに情報量を持っていて、我が子の博識ぶりに驚かされたりもするのだ。
逆に作品の方が意図せずに問題を起こすこともある。その場合は間違いなく親たる作者の責任である。我が子の監督不行届であるからそれは当然のことだ。社会的責任論でいえば、そういったある種の不可逆性を持つ関係ではあるのだが、純粋な表現物として考えた場合、「存在」として認めなければならない尊厳がそこにはある。
さて、今回の作品群においてコンセプトは付与しないが、名前をつけることは積極的に行った。これも「存在」として認知することに必要なものだと考えているからだ。
僕は普段のデザインワークでもコンセプトを立てる他に、密かにタイトルを付けるということをよく行う。名前というのはあるイメージの外枠を、緩やかに作り上げてくれるのが良いのだ。「名前」はコンセプトほどガチガチに方向性を定めず、着地点も明示しないが、なんとなく「このエリアが遊ぶ場所かな」というゾーニングをしてくれる。
「名は体をあらわす」とはよくいったものだが、名前を先に決めることで、浮かび上がる体もあるのだ。名前とは、本来的に「分類」である。名前をつけることによって存在の輪郭は生まれるのだ。「名前をつけなくても林檎はそこにある」という意見もあるかもしれないが、確かに物体としてはそこに在るだろう。しかしそれは例えば、木から分離した「木の赤くなった一部分」がそこにあるという認識になるはずだ。我々はそういうふうに世界を認識している。多かれ少なかれ、本当は一つである世界を名前をつけることで分断して見ているのだ。
これが本作を「存在」として描くのであれば、名前をつけなくてはならないと考えた理由である。
本展示のタイトルに『Simulation (or Imitation) Box』と名づけたのは、冒頭で述べた通り単なる音の響きからではあるが、名前をつけることで、なんとなくのビジュアルのイメージは湧いてきていたのは確かだ。多用している鋭角のラインはなんとなく「Box」という言葉の持つ象徴的イメージあたりから引っ張られてきたのだろう。と、作品に導かれて後から推察する。
また、『仮想現実的(または模造品的)な箱』という意味のこのタイトルは、いつもデザイナーがイメージを組み立てる、「四隅のある画面」のことを指す言葉のようにも思えてくる。このように、名前の後から勝手にイメージは生まれてくるのだ。人の想像力を足がかりにして。
【Printing Direction】
B2作品は、株式会社ショウエイに依頼。計5枚、メタリック紙に印刷した。当初は細いラインのみにメタリック紙の輝きを残し、その他の部分を白インクで隠蔽した後に印刷しようと考えていたが、色校正の立ち会い時に、ショウエイのPDさんが白で隠蔽をしないバージョンのものも出してくれていた。意外と白を用いずとも、自然とインクを乗せた部分とは差異ができ、面白い質感になっていたので現場で印刷方法の変更を決意。これもブリコラージュ的な創作方法の一つである。アルミに印刷したような質感になったのは気に入っている。
【Printing Direction】
A3作品は、PRINT+PLANTに依頼。計5枚、黒の紙にリソグラフで印刷した。インクはゴールドとグレーの2色。かねてからリソグラフのゴールドインクの質感が気に入っていたので、それをメインで出してもらった。先のB2も同様ではあるが、低反射のアクリル板を挟むことで、質感に面白みを与えられている。
【Painting】
実に20年ぶりにキャンバスにアクリル絵の具で絵を描いた。最初は溝引き(定規と並行に筆を運ぶ技術)もままならずブランクを感じたが、後に感覚を取り戻した。アナログで描いてみて発見したのは、自身の集中力が意外と衰えていないことだった。普段のデザインワークでは、私は常に立ち上がったりウロウロしたりし、カフェで作業していても1-2時間で別のカフェに渡り鳥をする。しかし、アナログ作業では、10時間ぶっ通しでも絵を描けたし、描いてる間は腹も減らず、喉も渇かず、眠くもならなかった(もっとも、筆を置いたら一気に疲労が塊としてやってくるのだが)。
これは、本能的に自分がやりたいことの一種なのだろうと、今後少しアナログ作業を増やしていくことを考えている。
また、絵の具という物質のアクシデントを利用するという意味ではブリコラージュの体現のような作業であるし、今回の展示のテーマである「作品存在」に一番即している技法でもあった。
【Post Card】
ポストカードもA3作品同様、PRINT+PLANTに依頼。金の活版と、凹凸版、また、細かい毛並みを亜鉛凹凸盤と、計三回押している。
【Non Concept Book】
今回の展示自体にコンセプトはないが、なぜコンセプトがないかについては、一冊の本にまとめた。本ページにもその説明も部分的に載せているが、そのうちnoteにでも全体を載せても良いかなとは考えている。
結局のところデザイナーである私は、普段ガチガチに意味を意識しながら形を作っているので、自由に絵を描くために12000字以上もの哲学的思想体系を綴ることが自分の中に必要だったということなのだろう。
アイ・ウェイウェイはその自伝映画の中で、「自由というのは不思議だ。一度経験すると心の中に棲み着いて、誰にも奪えなくなる」と語ったが、まさにそれだ。私はずっと自由中毒に苛まれている。
Art Director / Graphic Designer: Yu Miyazaki (MY HEAD LLC)
Printing Company: SHOEI Inc. / PRINT+PLANT